2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」   入江幸男

        第4回講義 (May 9. 2006

§2 実践的知識とは何か (続き)

 

 

5、実践的知識は本当に観察に基づかないのか?

(1)一瞬の観察の可能性はないか?

「何をしているの」と問われて「コーヒーを沸かしているのだ」と即座に答えることができるので、観察によらずに答えているように思われる。しかし、ほんとうにそうだろうか。たとえば、ごく短い時間の観察を行っているのではないだろうか。

 たとえば、「このチョークは何色ですか」と問われて「それは白です」と即座に答えることができる。しかし、それは観察による知である。なぜ時間がかからないのかといえば、その問いを理解するときに「このチョーク」が指示している対象を理解する必要があり、そのためにはそのチョークを見る必要がある。つまり、その問いを理解したときには、そのチョークを見ているのである。そのために答えるための観察の時間が余計に必要になるということがないのである。

これと同じで、「あなたは今何をしていますか」と問われたときに、その問いを理解するためには、「私が今していること」という語句の指示対象を知る必要があるのだとすると、問いを理解するときに、<わたしが今コーヒーを沸かしている>という事実が指示されており、答えるときにもはや観察のための余分の時間が必要ないのではないか。ここでは、上の問答を、「あなたがいましていることは何ですか」「私が今していることは、コーヒーを沸かすことです」という問答として理解している。(もし、「何が、あなたがいましていることですか」「コーヒーを沸かすことが、私がいましていることです」ならば、上の指摘は正しくない。なぜなら、この場合には、「私がいましていること」は述語(普遍概念)であり、特定の事実を指示していないからである。)

 このような批判にどのように答えればよいだろうか?

 

6、実践的知識が想起に基づいている可能性はないか?

あるいは、数分前にコーヒーを沸かそうと考えていたことを想起して答えている可能性はないだろうか。

朝起きたときに「ここはどこか」と問われたら、すぐに「ここは私の家だ」と答えるだろう。これは、昨夜どこで眠ったかの記憶をたどることによって答えるのである。「日本の首相は誰ですか」と問われたならば、「小泉純一郎です」と即座に答えることができるだろう。このときには、記憶されている知識を想起することによって答えているのであり、観察や推論によって答えるのではない。しかし、これらの記憶は、もともとは、伝聞や観察や推論による知識である場合が多いだろう。

 

たとえば「きのうは何をしましたか」という問いに答えるとき、昨日の記憶に基づいて答えるのである。これと同様に、「何をしているの」と問われて、数秒前の記憶に基づいて「コーヒーを沸かしているんだよ」と答えることがあるのではないか。かりにそうだとしても、数秒前には、どうして「私はコーヒーを沸かしている」ということを知りえたのだろうか。このような知が記憶されているのではなくて、数秒前の観察が記憶されていて、その観察をもとに「私はコーヒーを沸かしている」と推論したのだろうか。

 

7、実践的知識は推論に基づかないのか?

「何をしているのか」と問われて、観察によらずに、「xをしている」と答えるのが、実践的知識である。このとき、「なぜxをしているのか」と問われて、観察によらずに「なぜなら、yをするためだ」と答えることができるという。この答えは、行為の理由を答えるものである。つまり、つぎのような実践的三段論法の前提の一つを答えているのである。

xをすれば、yをすることができる。

私はyをしたい。

∴ 私はxを行う。

このとき、実践的三段論法の結論、「私はxを行う」は、発話として考えれると、行為遂行型の発話になるだろう。前提の一つである「私はyをしたい」は、自分の欲望を記述している事実確認型発話であるとも考えられるが、自分の欲望を表明する行為遂行型発話だとみることもできるだろう。

 

 このような実践的三段論法は、行為を決定するときに我々が行っていること、あるいは後から行為を正当化するときに、我々が行うことであり、これによって、我々が我々の行為を知るのではない。

 

8、観察によらない知の存在証明

■観察に基づく知は、観察によらない知に基づく

「p」という知が、観察によって得られる知だとするとき、それが観察によって得られること自体は、観察によらずに知られるのだろうか。例えば、「あそこの家の屋根は赤い」は観察によって知られる。「なぜそういえるのですか」と問われて、「そのように見えるからです」と答えるとき、私は観察によらず答えている。もし、この答えが、内官による反省にもとづいているのだとすると、「なぜそのように見えるのですか」と問われたときには、「なぜなら、そのように見えていることは、反省するときに明らかだからです」と答たえることになるだろう。ではこの答えは、観察によるのだろうか、そうではないのだろうか。もし、この答えが、観察よらない知でありうるのならば、最初の「そのよう見えるから」という答えもまた、観察によらない知でありたであろう。

もし、この答えが、観察による知であり、内官による反省に基づいているのだとすると、これは、際限なく続くことになる。この場合、「あそこの家の屋根は赤い」という発言に対して、「なぜそういえるのですか」と問われて、「そのように見えるからです」と答えることが、反省に基づいているということになる。そして、この答えが反省に基づいているということも、また反省に基づいて知られることである。ところで、この答えが反省に基づいているのだが、そのことを知らないとしたらどうなるだろうか。このとき、「そのように見えるからです」と答えることが可能だろうか。これは可能だと思われるかもしれない、なぜなら、観察と命題の関係は、論理的な前提と帰結の関係ではないからである。しかし、そうではないことを以下に示そう。

ここでの事態は以下のようになっている。

「「「あそこの家の屋根は赤い」という知1は、<あそこの家の屋根の知覚>に基づいて成立している」という知2は、<「あそこの家の屋根は赤い」という知1が、<あそこの家の屋根の知覚>に基づいて成立している>という反省1に基づいて成立している」という知3は、<「「あそこの家の屋根は赤い」という知1は、<あそこの家の屋根の知覚>に基づいて成立している」という知2は、<「あそこの家の屋根は赤い」という知1が、<あそこの家の屋根の知覚>に基づいて成立している>という反省1に基づいて成立している>という反省2に基づいて成立している。

我々は、上の知2を持たずに、知1を持つことはできないだろう。そのとき知1は当人にとって根拠のない断言になってしまい、もはや知とは考えられないからである。どうように、知3をもたないならば、知2を持つことはできないだろう。そのときには、知2は当人にとって根拠のない断言になってしまうからである。そうだとすると、反省2がないときには、知1も成立しないことになる。

 さて、我々は次のように言うことができる。もし「p」が観察による知であるとするとき、「p」が観察に基づいていること事態は、観察によらない知である。なぜなら、もしそうでないとすれば、観察による知が成立するには、無限の反省の繰り返しが必要であるが、そのようなことは不可能だからである。

 

■推論に基づく知は、推論に基づかない知に基づく■

推論に基づく知は、前提となる知からの推論に基づくということである。

たとえば、「q」が、「pならばq」と「p」を前提とする推論によって導出されたのだとしよう。このとき、「qが、推論に基づいている」ということの知は、別の推論にもとづくものではない。もしそうならば、その別の推論は、メタ規則として設定されることになるだろう。そして、ルイスのアキレスと亀の話のように、無限に反復することになる。

これは、反省によるのでもない。そうだとすると、これは推論にも観察にも基づかない知であることになる。

 

■すべての知は観察にも推論にも基づかない知に基づく■

では、このような観察にも推論にも基づかない知は、何に基づくのだろうか?

 

 

9、一つの行為について複数の記述が可能である。

 a、腕を上下に動かす

 b、ポンプを押すこと

 c、水槽に飲み水をくみ上げること

 d、その家の居住者を殺すこと

 e、その男がポンプをカッシャンカッシャンと押しながら、英国国家のリズムをとること

 

10、基礎的行為

A.ダントー

 

11、基礎的行為と高次の行為の関係

*因果関係(あるいは、因果関係に基づいた関係?)

  上のaはbの原因であり、bはcの原因であり、cはdの原因であるといえる。

*コンヴェンショナルな規則に基づく関係

  オートバイに乗っていて交差点で右手を挙げるこういは、交通法規により、左折の合図として記述される。

  四三に桂馬を打つことは、将棋の規則により、王手飛車として記述される。

  紙面に自分の名前を書くことは、慣習?により、条約の調印として記述される。

 

■ミニレポートの課題■

「「我々の行為」について、p.7の分類が可能かどうかを考えてみてください」